ホーム > 有珠山噴火の歴史

| 西 暦 | 和 暦 | 噴火の内容 | 参 考 |
|---|---|---|---|
| 1611年 | 慶長16年 | 不 明 | この噴火については明確な資料が残っていない。従ってこの噴火は誤りとされている。 |
| 1638年 | 寛永 5年 | 不 明 | 同 上。 |
| 1663年 | 寛文 3年 | 山頂噴火 | 徳川4代将軍家綱の時代、死者5名。 |
| 1769年 | 明和 5年 | 山頂噴火 | 徳川10代将軍家治の時代。 |
| 1822年 | 文政 5年 | 山頂噴火 | 死傷者82名、イギリス船が浦賀に入港した年。(徳川家斉:11代) |
| 1853年 | 嘉永 6年 | 山頂噴火 |
日本海海戦のあった年、また漱石が「吾輩は猫である」を書いた年でもある。 この噴火でに大有珠を形成した。 |
| 1910年 | 明治43年 | 山麓噴火 | 日露協約が締結されたこの年の大噴火では、キノコ型の噴煙は700メートルに達した。火口の数は36個に達し、明治新山(四十三山)ができた。 |
| 1943年〜45年 | 昭和18年〜20年 | 山麓噴火 |
第2次世界大戦後半〜終 戦。 フカバ集落があった場所が1日60センチずつ成長し昭和新山となった。 時節柄大々的な報道はなされず”濡れるとセメントとなる火山灰”を「神助の戦力」と称し軍が丘珠空港に運んだ新聞記事が残っている。 噴煙と雨が重なると鳥がバタバタと落ちた。洞爺湖のヒメマス、ウグイは全滅。 |
| 1977年 | 昭和52年 | 山頂噴火 |
このときの噴煙は12,000メートル上空まで達した。
千歳を発って名古屋に向かった飛行機にこの時の火山石が命中し2枚のガラスが割れ引き返した。 吐き出された火山灰の量は霞ヶ関ビル400杯分に達し車の視界は昼間ライトをつけて2メートル。 爆発当時の洞爺湖温泉は逃げまどう人々でパニック状態となった。 すしずめ状態のバスの運転手は「噴火より人間が怖かった」と話している。 壮瞥に実家のある横綱北の湖も実家に電話、「父ちゃん速く逃げろ、母ちゃん大丈夫か?」。 また医者と看護婦が逃げる車中で産気づいた妊婦の出産を成功させたと言う美談も残っている。被害総額は316億円。 このときの様子を伝える週刊誌「明星」8/28号のグラビアを飾っているのは吉田択郎と浅田美代子の結婚式、狩人、18才の岩崎宏美、北大路欣也の婚約など。 |
| 2000年 | 平成12年 | 山麓噴火 |
前回の噴火からわずか23年目、有珠山の南西「西山」の麓から噴火した。 3月27日未明の火山性地震の観測から3日目の31日、大勢の町民・マスコミが見守る中で起こった。 虻田町・壮瞥町・伊達市を含む住民は既に避難が完了しており、人命の被害は無かった。 4月1日には、洞爺湖温泉街の背後「金比羅山」に新たな火口を開け、噴火口は合計50ケ以上にも及んだ。 場所を移動しながら活動する様子は、明治43年の噴火によく似ている。 100年間に4度の噴火が起こった有珠山は、活発な活火山を再認識させられるとともに、次回の噴火に備えをすることの大切さを実感させられました。 |
2000年3月31日午後1時8分、3日前の地震から噴火は予知され、多くの町民やマスコミ関係者が見守る中噴火は始まった。
有珠山から3.5Km離れた西山山麓の国道230号線上だった。

噴火は見る間に広がり、上空3,000mまで吹き上がった。
近くには民家が密集していたが、幸い全町民は避難しており人的な被害はなかった。

噴火は場所を移動しながら、50以上の噴火口を作った。
現在は、西山高原として一般に開放され、迫力のある景観を望むことが出来る。

鉄道の枕木を敷き詰め、散策路が完成している。
洞爺湖温泉町から車で7分程の所に有り、全長約1.6Km、約40分ほどで観光できる。

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